昭和44年10月29日 夜の御理解



 昨日でしたか、今日が二十九日で敬親会ですから、豊美の色々はなむけを頂いたり、衣装やらを見て頂くように今日まであのままにしておくがよかろうと言うて、秋永先生が言われる。今日お年寄りの方達に見てもらってから、そしてから、荷造りしようという事になりましてね。昨日あの私の部屋の方に、いっぱい頂いておるのを、明日のお年よりの皆がちいうて、その、先日は出していなかったものまで、箱から出しまして、あそこに、綺麗にみて頂くように出しよりました。
 そしたらあの、高松順子さんがあのはなむけにしておるものが、小さい包みからこう出しましたところが、春慶画の見事な硯箱で小さい硯箱でした。それを私はあの見た瞬間にですね、本当に感動したんです。というは是はもう絶対久保山先生が働いちゃるよねちゅうて言うた事でした。あのご自分がもうあがもうあの筆をとって字を書かかれると言う事は、もう得意としておられたし、だから順子さんがそういう硯とか硯箱とか言った様なものに、ま気がついたといやそれまでですけれどもね。
 これは確かにおじいちゃんの、御霊様が働いてござるよというて、まあほんなこてそうでっしょうねち、言うてから、皆感激しよったんですけれどもね。一つ一つのその、真心というか、そういうものがこう、こうして、何気なしに買ったもの。またはあれがよかろうか、これがよかろうかと思うてまあ、思いにこらして買うたもの。やはり何気ない中に、一生懸命の、例えばあれがよかろうこれがよかろうと思いを、心を練らせて頂いたもの、その中に神様のお働きというものが、あっておると。
 例えば私はその、順子さんの贈り物に対しては、神様の働きと同時に、おじいちゃんの御霊の働きがあっておるなあと感じておりますがですね。あれだけ沢山のはなむけを頂いておるのに、だぶっておるというものが無いからなんです。もうそれは本当に驚くばかりです。ですからそういう例えば何気なしに、言うたり、何気なしに思うたり、何気なしにと言うことを思い思いにもってかけて、そのした事にもです、中に神様の働きが必ず有るという、という事を私共は本当に知らなければいけない。
 だからそこには問題がないのです。そういう働きの中にあるのですから。最近豊美のことでこれは私も教会全体がまあいうなら、振りまわされておるような感じでございます。なるほどそれは初めてのこことしてはお祝い事ですし、初めて、私の子供が他家に縁につくのですし、同時に今度は相手がご本部の方であるという事。古川家であるという事がまあ一つは皆の思いを一生懸命に駆り立てるわけでしょうけれどもです、まあ皆さんが私に親先生はもう本当にもうここで親先生が一番ひどかろうち。
 もう何処の親でもやっぱあの男親のほうが広がるて。もう親先生の事やけんいや私はどうもなかち言われんもんじゃけん黙って聞きよりますけれども、実際は私はどうもないです。ね。それはあたほんなこて是があなた、愈々売れ残って嫁入りせんならおおごつなこつでしょうもん。もう本当にしかもおかげを頂いて、こういう例えば今申します様な一分一厘の間違いのない働きの中に取分けそれ感じるからです。
 そういう働きの中にいくのですから、寂しいとか何とか起こってよかはずじゃない。あろうはずがない。日頃何のために信心のけいこをしておるかね。と私は思うです。私が豊美あんたに悲しかったら寂しかったらそんな事するはずがなか。本当におかげを頂いてもったいない。おかげを頂いて有り難い。その感涙にむせることはむせるかもしれません。ね。けれどもそれが惜しいとか欲しいとか、はあ本当にこんなに立派に育ててからやらにゃんちゃ惜しいことだなんて思わん。
 只、その勿体な程に躾をして頂いてもこれは親の徳でも何でもない。神様はこれだけのことをして下さるということは、只勿体無いと思うだけ。只、神様の心を思や有り難とうて、いわゆる有り難涙がこぼれることだけは間違いないけれど、それが惜しいとか欲しいとか、寂しいとかいうはずがない。それは神様のそうした一分一厘間違いのない働きを私は信じておるしまた、それを感じておるからです。ね、
 一つの沢山の人がはなむけをなさるのに、ね、それが本当に頂いて嬉しいもの、頂いて喜ばしてもらうものばかり。しかもあれはこれは二つまいっちょあるのに、と言った様なものがないと言う事。神様の働きを頂いておると言わなければおれないじゃない。ね。そういう中にですね、おかげをお互いが日々の生活の中にそういう間違いのない働きの中に、あれこれが起こったりあったりするのでございますから、ね、
 ご神意、御神慮のほどを分からせてもらうということは、また有り難い。ご神意をそこから悟らしてもらい分からせてもろうて、そこからの信心がまた一段と成されてこなければなりません。ね。今日も私、敬親会の方たちに、お話を聞いてもらったのですけれどもね、まあ、いわゆる私がお話することは神様の一分一厘間の違いのないということ。それを私いくらも実例を持ってお話させて頂く。
 だからこういう中にお互いがおかげを頂くのですから、例えていうならばお互いが例え死んでいくに致しましても、この頃も園遊会の時にあの、ある人が一人言い出しました。「もうこの頃帰らせて頂く、」ちょうど森部じゃない、高山さんでした。ずっと善導寺から歩いて帰られた。鎮西橋じゃない、あの大城橋を渡ってりきってしもうて( ?)行った時にあの、夕立がどしゃぶりじゃった。
 もし橋の真中であったなら、あの土砂降りだったら一遍に濡れておらじゃったじゃろうが、ね、本当に私くらいなものにまでお守り頂いておった。本当に神様の前のまであんなお湿りじゃったのが、あんなおかげを頂かれて、そして、園遊会がすんだ途端に私共が帰る先々の者にまでお繰り合わせを頂いた」という話をされましたら、何人ものおばちゃんがそれを言われるんですよね。
 佐田さんも私共も本当にあの、とにかくそこのバスの停留所に行った途端に、あの大降りにあった。所がバスに乗る時にはもう小降りになっておったし、久留米についた時にはもう降り止んでおりましたとこういわれる。ね、そういういわば間違いのない働き、是は天地が合楽の私どもの者の為に自由になって下さっておる様な感じ。だから天地の中に、地獄も極楽もこの天地の中にあるのだからそういうご信心を頂き。
 おかげを頂いていくということがです、間違いのない中にそれがあるという事を信じることが信心ですよ、というてまあ聞いて頂いたのですけれども、そういう間違いのない働きの中に私共があるのだと。ね、ここを確信させて頂きゃ一切が解決です。問題があるはずがありません。ね、問題があるところに修行不足であり、信心不足を感じます。私順子さんのそのはなむけに対してです。
 これはおじいちゃん、御霊様の働きに違いないばいと言う途端に私は最後のほうが、少しくもるくらいに感動したました。恐らくは御霊様がです、「そうだったんですよ、先生」神様がそうじゃったよと言うて下さった様なものが是に感じられたからだと私は思うです。そういう働きの中にお互いが日々信心の稽古をさせて頂いて、それを私共が和賀心でそれを感じる、どれほど感じるかと言う所が信心なんです。どれほど有り難く感じるかと言う事が信心なんです。
   どうぞ。